ネットの中立性の構造
元々インターネットを開発したエンジニアやビジョナリー達は世界をまたがり、コンピューターからコンピューターへ情報の「パケット」を送ることができるようにデザインしました。彼らは「エンドツーエンドの原則」を宣言しました。この原則には複数のバリエーションがありますが、基本的にデータのパケットを一つの末端からもう一つの末端に移動させる際にネットワークがこれらを無差別に扱うべきだということを示しています。複雑さ、差別、そして知的選択は末端にて集約されるべきです。ある先駆者達の言う「のろまなパイプ」がまさに必要とされるのです。
後にこの原則は「ネットの中立性」として知られる更に一般的な原則へと発展しました。このフレーズの背後にはインターネットの構造と呼ばれる複雑で技術的な問題があります。ネットの中立性の最も革新的なバージョンは情報を完全に無差別的に扱うべきだとします。簡単なメール文章であれ、バンド幅を食い尽くすポルノ映画であれ、地上や海中をめぐるケーブルなどインターネットの物理的インフラを実際に所有し運用するインターネットサービスプロバイダーは危惧や恩恵など関係なく、平等にコンテンツを伝達するべきだとします。もっとニュアンスのあるバージョンは「正当なデータ通行管理」を許容しますが、Comcast や Verizonのようなオペレーターが商業的利害関係にある他企業と競合するような商品(ケーブルテレビのチャンネルなど)を排除したり停滞させたりすることは許可しません。また人々が更に高い値段をオファーする用意のある商品を特別扱いすることも許しません。
ほとんど私的権力によって運営されている世界規模のネットワークにおいて、ネットの中立性と収益主義は常に緊張関係にあります。この複雑なテーマについて更に読みたいなら、サイバー法の尊師Larry Lessigによる解説を見てみてください。あるいはEvgeny Morozovの典型的に挑発的なレビューを呼んでみてください。さらに深く追求したいなら、彼が参照しているTim WuのThe Master SwitchとBarbara van SchewickInternet Architecture and Innovationを読んでみるのもいいでしょう。
インタネットがこのような道筋で発達するなど最初から決まっていたわけではありません。もしもロシア軍やイランのシーア派リーダーが発明していたら、もっと違った形、あまりにも違って私たちがインターネットとは認識できない形になっていたでしょう。またこれからも現在の形でインターネットが存続していく保障はありません。様々な国家や企業が政治的、商業的理由にインターネットの原点にある夢をすでに壊しつつあるからです。私たちの知らないうちにコンピュータースクリーンの背後で、そして携帯機器の中で権力闘争が勃発しています。もしも私たちが電子伝達によって拡張される言論の自由を欲するならば、何が起こっているか理解する必要があります。
ほとんどの人が国家レベルでファイアーウォールを用いた検閲が行われていることを知っています。情報や考えはインターネットプロバイダーや電話会社などの数少ない仲介者が所有するケーブルやワイヤレスネットワークをつたって一つの国に届きます。政府はこういいます。「これをブロックしろ、あれをフィルターにかけろ。そうでなければ裁判を起こすぞ、操業停止にするぞ。」私がイランで経験した最も露骨な種類のブロックは、まるで危険を警告する三角形の交通標識のような警報サインがポップアップし、このウェブサイトはブロックされていると表示しました。中国、サウジアラビア、パキスタン、トルコでは多かれ少なかれ婉曲なメッセージが様々出てきます。もしもある場所でサイトがブロックされてることを発見したら、Herdict monitorに通告し、他の人々が同じ経験をしているかを調べることができます。
しかしながら公然としたブロックは最も露骨な形の支配でしかありません。昨今の国家にはもっと洗練された方法があるのです。しばしば虚偽、あるいは歪曲されたバージョンを代替手段を放出し、検索結果のトップに組み込んだり、メールの受信トレイをいっぱいにしたりあします。都合の悪いウェブサイトに対し「サービス拒否」攻撃を根回しします。合法に、あるいは違法にメールアカウントにアクセスし、検索項目をこっそり調べ、個人ユーザーが誰に何を言っているか監視します。そして、まったくをもって古臭い方法で、情報を交換したり考えを述べたりすることを理由に人々を投獄します。
西洋の民主主義国家はこれらの慣習を非難します。アメリカ政府は独裁政権のファイアーウォールを迂回するための技術開発を公的に支持しています。しかし西洋国家自身もテロ防止、サイバー犯罪抑止、ペドファイルの阻止、プライバシーの保護、そしてヨーロッパ諸国の場合はヘイトスピーチの検閲など、適当だと思われる場合においてインターネットや電話の利用者をブロックし、フィルターにかけ、秘密調査をしています。時として国家の右手は自らの左手の仕業と戦っています。ウィキリークスは告発者がアメリカ政府の国家機密を流出できるようにするために、アメリカ政府から部分的に援助を受けた迂回技術Torを使いました。
企業は何をいるでしょうか
これらの公的権力は話の半分でしかありません。コミュニケーション技術が発達した道筋を踏まえると、比較的少数の民営会社(あるいは準民営会社)も私たちが何を閲読し、聞くことができるのかを決定する多大な権力を保有しています。グーグルとフェイスブック、百度とRostelecom、Comcast、マイクロソフト、Verizon,、China Mobile、アップルはそれぞれユーザーが何を受け取り、伝えることができるか制限しています。幾分かは運営している国の法律や政治体制(国によってその限度は様々ですが)に従うためのものです。(周知の話ですが、2004年にヤフーの北京事務所は中国当局にShi Taoというジャーナリストの実名とコンテンツを含むメールの詳細を提供し、その結果彼は十年の服役を課されています。)しかしこれらの私的権力は自らの価値観、編集基準、商業的利益の追求のためにこのような侵害行為を行っています。世界的な表現の自由の現実にとって、ドイツが何をするかよりグーグルが何をするかの方が重要なのです。
グーグルと中国という巨人の対決で、グーグルは弾圧的政治権力に立ち向かい言論の自由に賛同する立場を取りました。しかしながら「検索する」の代わりに「ググる」という表現が象徴するように、たくさんの国で最も使用されているサーチエンジンであるグーグルは言論の自由を制限、あるいは捻じ曲げる多大な潜在的能力を有します。例として現在グーグルは積極的に児童ポルノを検閲し、ペドファイル追跡のために警察と強力しています。私たちのほとんどがそれを良い事だと思うでしょう。しかし将来グーグルの違うリーダーが、アメリカ政府が難色を示す集団など、他の集団などを追跡すると決めたらどうなることでしょうか。アメリカ人作家Eli Pariserは「邪悪になるな」というグーグルの有名なモットーについて考え込むグーグルの検索エンジニアの発言を引用しています。このグーグル内部者は言いました。「私たちは本当に邪悪にならないように努力しているけれども、本当にやろうと思えば簡単なことだ!」
私的権力が電子伝達の自由を制限、形成する方法は多々あります。例えば、取引を通じて金銭を払う意思のある人の考え、メッセージ、商品の配達を早くしたり、検索結果の上位にあげるなどしています。自由市場主義者は「それの何がいけないのだ」と言うかもしれません。
あなたのキンドル、iPad、ラップトップだと思っていても、製造者やオペレータは外部からアクセスし、あなたが寝ている間に情報を閲覧、保存することができます。2009年7月のある晴天の日、アマゾンの顧客である複数の人々はGeorge Orwellの「1984」がキンドルからなくなっていることに気付きました。(もしかしたら独裁者の命令で文書が抹消される「記憶の穴」についてのその本の有名な箇所を読んでいたのかもしれません。)また、これらの情報伝達会社は大規模の個人情報を所有しています。これらのプライバシーへの脅威については、第8原則の議論を見てみてください。
どのような制限が正当でしょうか
最も自由主義のサイバー理想主義者のみがまったくの無制限であるべきだと論じるでしょう。例えば、昨今の世の中はほとんど普遍的に幼児虐待を推奨するウェブサイトをブロックすることに賛成です。サイバー犯罪はインターネットのオープンさを悪用し、今ではとても大規模なビジネス展開をしています。テロリストは新メンバーをインターネットで募集します。
それなので私たちの第2原則はすべての制限を否定するわけではありませが、不当な侵害について注意が必要だと考えます。しかしどこで正当と不当の境界線を引けばいいのでしょうか。結局のところ、中国当局が「社会調和」のためだとするインターネットの検閲を正当だと見る中国人は少数ではありません。誰がどうやってこの線引きをするべきでしょうか。主権国家の法制度にどの程度頼るべきでしょうか。政府間機関ではなくICANNというカリフォルニアを基点とする非営利組織によってドメイン名が割り当てられていることは正しいと言えるでしょうか。国連のInternet Governance Forumは巨大で無意味な話し合いの場でしかないのでしょうか。インターネットにおける表現の自由に関わる問題の詳細でニュアンスのある考察については国連特別大使Frank La Rueのレポートをここで読んでみてください。
私たちネチズンは
他の草稿原則と同様、この原則も「私たち」という言葉で始まります。これは私たち世界市民、世界ネチズンが「侵害から守る」という能動的な行動にでる余地があることを示唆するためです。しかしどうやってそれができるでしょうか。まず初めに、実際になにが起こっているのか理解することが必要です。インターネットにはこのような情報を得られる素晴らしいスタート地点がいくつかあります。例えば、ハーバード大学のBerkman Centreのウェブサイト、Electronic Frontier Foundation (EFF)、Open Net Initiative、Chilling Effectsというプロジェクト、そして European Digital Rights Initiativeを見てみてください。
その次にインターネットや電話での自由な表現にどのような制限を設けるか考える、模索する必要があります。これは他者が何を考えているかを理解し、それらについて対話を持ち、何についてならば同意でき、また同意できないかを見てみることです。このウェブサイトはまさにその為に存在します。
もし何かがおかしいと思ったら、法律、規制、慣習を変えるために政府へのロビー活動をすることができます。また理論上はこれらの事柄を規制している国際機関に提言することもできるでしょう。他にも、諸問題を分析し、政府や国際機関に対してロビー活動を行う非営利組織がいくつも存在します。多数の国にあるこれらの組織のリストと最近の動向はIFEXで見つけることができます。
同じくらい重要なのは私たちの影響力を私的権力に感じさせることです。結局、私たちは彼らの顧客だからです。もし私たちが彼らのサービスを利用しないなら、彼らは存在することすらできません。時としてそれは選択メニューに隠れているすれでに既存のオプションを使うだけのことかもしれません。しかし、Buzzの侵害的機能をグーグルに変更させたり(後のそれはGoogle+に吸収されました)、Beaconをフェイスブックに辞めさせるなど、公的圧力という形を取ることもできます。それか他のサービスプロバイダーに移って、その移った理由を公に流すという方法もあるでしょう。
また自分たちでできる技術的な対応策もあります。EFFのウェブサイトはこのことについていくつか良い提案をします。Berkman Centreにて、私たちがインターネットに載せた情報を、お互いのコンテンツを照らし合わせる相互契約を結ぶなどして、公的・私的権力が気に入らないだけの理由で簡単に「削除」できないようにするためのプロジェクトが進行中です。他のすべての形のコミュニケーション同様、インターネットの運用には偉大な公的・私的権力が関わっています。しかし何百万人ものネチズンらも偉大な権力なのです。