宗教と言論の自由
宗教は言論の自由にとって常に問題となり、同様に言論の自由は宗教にとって常に問題となってきました。現在私たちが宗教と呼んでいるものと類似したものが、人類の各集団が自分たちの言論の持つ決定的な力に対して初めて課した主要な自主的圧力であったと言うことができるようです。記録として残っている文化で、神聖な領域やタブーが存在しなかったものがあるでしょうか。西洋では、啓蒙と呼ばれるプロセスを通して17世紀から発展してきた表現の自由は宗教的権威と紛争とをどのように取り扱うかについて以外のなにものでもありませんでした。
20世紀半ば、西洋では近代化は必然的に世俗化につながると広く信じられていました。しかし、宗教は決してなくなることはありませんでした。欧州では現代最も激しい言論の自由に関する議論のいくつかがイスラム教、キリスト教と無神論という大変敏感な三角形の中で引き起こされました。インドや中東に目を向けるだけで、宗教に関する言葉や画像、象徴物がいかにその宗教の全てまたは一部で定義されている ユダヤ教徒、ヒンドゥー教徒、シーク教、ジャイナ教とアフマディー教徒など他の集団を巻き込んだ敵意や暴力につながるかということを知ることができるでしょう。
私たちが神聖だとするものは、言うまでもなく私たちにとってもっとも重要なものでもあります。ポーランドやロシアでは人々が宗教について言うことができることを「宗教的な心情を害する」という理由から制限する法律があります。そして宗教的心情は人類の持つ心情の中で最も強烈なもののうちのひとつです。イスラム教徒は自分たちの子供よりも予言者ムハンマドを大切に思うように教えられて育ちます。ローマ教皇であった故ヨハネ・パウロ2世の聖母マリアへの祈りに耳を傾けることは息子が母親に話しかけるのを聴くことを意味しました。非信奉者からしても、それは大変感動的なものでした。
歴史上ほとんどの社会において、タブーを作り上げ社会的、政治的を保つためにこのような心情は強化されてきました。近代国家において、そのようなタブーはしばしば冒涜法という形で作り上げられました。イギリスではキリスト教を保護するための冒涜法だけを考えても2008年になるまで廃止されませんでした。ほとんどの主要なイスラム教国家にはイスラム教を唯一または主に保護するための冒涜法が存在します。パキスタンでは刑法第295条によって予言者ムハンマドについての「話されたまたは書かれた言葉による、あるいは目に見える描写、また、転嫁したり、ほのめかしたり、遠回しにしたりすることによって直接または間接的に」表現された「軽蔑的な意見」は死刑に値すると定められています。実際にAasia Bibiという女性はこの条文に基づいて死刑になりました。イスラム教国家の多くでこのような決まりがインターネットのプロバイダーによるサービスの契約条件に含まれています。
「宗教への中傷」?
全ての人が物理的または仮想的にお互いの隣人となることで私たちには二つの選択肢があります。一つの選択肢としては、上に挙げたような、ある一定の領域において有力である一つまたは少数の宗教のみを保護するための選択的タブーを取り除くという方法があります。また、もう一つの選択肢としてはそれらのタブーを、「あなたたちのタブーを尊重するから、私たちのタブーも尊重してほしい」という考え方を持ち全ての宗教に同じように広めるという方法があります。例えばイギリスでイスラム教コミュニティの指導者が冒涜法はイスラム教にも適用されるべきだと主張したことがあります。国際的には56ヶ国のイスラム教国家による連合であるイスラム諸国会議機構は国連に対して「新たな拘束力のある規範的基準」と呼ばれるものを設けて「宗教への中傷」を禁止すべきだと何年もの間主張しました。
しかしここでいう「宗教」とは一体何でしょうか。いわゆるアブラハムの宗教と言われるイスラム教、キリスト教、ユダヤ教の三つの宗教の他にほとんどの人はヒンドゥー教や仏教、道教、シーク教、ジャイナ教、ヨルバ教などの確立された宗教を容易に認識するでしょう。また、中には宗教であるかということを疑問視する人もいますが、儒教もその歴史の長さと支持者の数によって宗教と考えることができるでしょう。しかし、それでは例えばサイエントロジーはどうでしょうか。占星術はどうでしょうか。非宗教的なヨーロッパ人はしばしばアメリカ人の単純な宗教的熱意を馬鹿にしますが、ある調査によると、フランス、ドイツ、イギリスに住む人の半数以上が占星術を真に受けているということです。それに、2001年のイギリスの国勢調査で39万人もの人が自分の信仰をスター・ウォーズの「ジェダイ」だと答えたことについてはどう説明できるでしょうか。
誰が「真剣な」宗教は何かを決めるのでしょう。米国では法律上サイエントロジーは他の信仰と同様に宗教として取り扱われていますが、ドイツではサイエントロジーは危険な党派として法律で禁止されています。(ドイツのサイエントロジーの信者は宗教的な迫害を受けているということで実際アメリカへの亡命が認められました。)宗教としての条件は長い間存在しているということと多くの支持者がいるということなのでしょうか。もしそうであれば、キリスト教は紀元後1世紀には宗教としての条件を満たさなかったことになります。それでは、ただ単に人々に真剣に信じるよう強要するだけの力があれば宗教だということになるのでしょうか。
このように、宗教としての条件は明らかに一般的な合意を得た合理的な基準とはなり得ません。信仰心というものは必然的に合理的なものではないからです。多くの宗教の神学者たちは道理とは信仰心を支え、信仰心と共存することができるものだと主張していますが、それはまた別の話です。さらにすでに確立された宗教の中核的な主張そのものを見てもお互いに大きく矛盾し合っています。
それに、無神論者はどうでしょうか。彼らの主張は保護に値するのでしょうか。「宗教的集団」を「宗教的信仰または宗教的信仰の不在によって定義される人々の集団」と定義するイギリスの公共秩序法によると、それもまた保護に値するのです。したがって、宗教を信じないということもまた、宗教的なことと言えるのです。歴史学者もまた、宗教への忠実さの中には信仰心ではなく儀式を遵守することによって成立したものもあると指摘しています。神を信じることなくして宗教的な意味でのユダヤ教徒になることができるということです。
これらは宗教に対する単純な反論でもなければ宗教をばかばかしいものに縮小しようとする試みでもありません。宗教として解釈されるかもしれないものとそうでないものの境界線はとても広域で流動的なものであり、それがもたらす疑問は人間の生活にとってとても重要なものであるために、そこに限度を設けようとすればそれは私たちの追求できる知識(原則5参照)、私たちがオープンに話し合える差異(原則4参照)、私たちがオープンで多様性のあるメディアを通して自由に議論できる公共政策(原則3参照)を大きく制限してしまうことになるのです。
国連自由権規約人権委員会もこのことに同意しています。委員会による市民的及び政治的権利に関する国際規約第19条の権威ある解釈は「宗教や冒涜法を含む他の信仰形式に対する敬意を欠いた表現をすることを禁止することは規約に相反することである」と述べています。しかしそのような表現は第20条の「差別、敵意、または暴力につながるようないかなる国家、人種、宗教に対する嫌悪感を提唱すること」の禁止に違反するものであってはいけません。これでもまだ、解釈には幅がありますが、この条件はどのような宗教に対しても宗教そのものに敬意を欠く(または「中傷する」)ものではありません。
二種類の敬意
しかしながら、これまで序論にてずっと強調してきたように、法律によって禁止されるべきではないというのはまだ言いたいことの半分に過ぎません。それは他の人々にとって大変重要なものについて私たちが何でも好きなことを言い、好きなだけ侮辱するという選択をするべきであるという意味ではないからです。原則7ではこれに関して、哲学者であるStephen Darwallの提唱する二種類の敬意の区別化という有用な考え方を紹介します。私たちが明確にそして無条件に「 信奉者を尊重する」と言うとき、私たちは「認識としての敬意」を意味しているのだとDarwallは言います。「しかし必ずしも信奉の内容は尊重しない」と言うとき、私たちはDarwallが呼ぶところの「評価の敬意」を意味しているのだと言います。
したがって、この草案原則の前半の意味するところは「たとえ自分が危険で無意味だと思うことを信じる人がいて、その人に対しそれを信じないよう説得したいと思ったとしても、その人には自分と同じ人間性があり、自分と同じように生来の尊厳と奪うことのできない普遍的人権を持っていることを認識する。その人の人権および市民権、法の下の平等、人類の一員であるということによって払われるべき敬意、これらの全てはその人の信念によって少しでも減らされるべきではない」ということです。
これは明らかに規約の第18条が自分の選択した宗教や信念を持ったり取り入れたり、それを 公的及び私的空間において個人的、または他者とともに共同体内で行われる「礼拝、儀式、実践また教えること」によって表現する自由として定義する宗教の中心的自由をも意味します。
この信奉者に対する揺らぎない敬意はほとんど全ての人類が科学的実証に影響を受けない何らかの信念を持っているという経験的認識をも意味する可能性があります(必ずしもそれを意味する必要はありませんが)。認知学的及び神経科学的な研究の結果によって宗教的要素は人類の意識の中にもともと組み込まれているのかもしれないということが示唆されています。科学的無神論者であるRichard Dawkinsが宗教的信仰心は過去の人類の進化において有利に働いたかもしれないと認めているのを私は聞いたことがあります。
さらに、人類の日常の経験を通して、人々は時に他の人にとっては絶対に真実ではないと思われることを信じるけれどもそれによってその人は例えば会計士や自動車技師として、または(変な話ですが本当のことです)妻としてあるいは夫として信用できない人になるわけではないと私たちは知っています。もちろん、信奉の形が不合理であればあるほど、間違ったものだと思われれば思われるほど、生活の中のより広い部分にそれは侵入してきて、問題は大きくなります。例えば、自分の歯医者が創造論者だったとしても不満はないかもしれませんが、その人に自分の息子に生物学を教えてほしいとは思わないことでしょう。また、自分の会社の会計士がハイファイバー(2足す2は5になると信じている人)だとしたら、それは問題かもしれません。しかし、実際には生活の中でそのような問題がおこらない領域は大変大きなものです。したがって、私たちは信奉の内容を尊重しないまでも信奉者を尊重することができるのです。
評価の敬意
評価の敬意においてはもっと多くのものが求められます。これは「私はあなたのサッカーの技術、作家としての作品、兵士としての勇気、看護婦としての献身さを尊敬します」というような種類の敬意です。したがって、草案原則の後半の意味するところは主張を評価し、記録と現在の宗教上行われている行為をたどることを必要とします。その評価の結果として全面的な拒絶という形になる可能性もあります。ある無心論者の作家は以下のように書いたそうです。「あなたのことを尊敬しすぎてあなたのばかばかしい信仰まで尊敬してしまう」と。また、逆の極端な例では完全な受け入れとなることもあります。「私はあなたの宗教における主張に全くもって納得したのであなたの宗教に改宗する」というような場合です。どちらにせよ。私たちには全てのいかなる宗教における主張についてもオープンに禁止事項なしで議論して、他の信仰や無神論への改宗にいたるまで、またその改宗を含めて恐怖や報復なく自由にすることができるべきなのです。しかし、世界のほとんどの場所でそのような環境は存在しません。自分が育ってきた信仰心や自分のいる共同体内で有力な信仰心に疑問を持ったりその信仰心を捨てたりすることは社会からの追放から死に至るまでさまざまな制裁を伴うのです。
面と向かってしないタイプの評価もあり、そこからある一定の条件に基づく敬意が生まれる場合があります。ドイツの哲学者であるJürgen Habermasによって記述されたのもその中の一つです。「市民権を共有する上で必要な相互の認識」について考え、Habermasは「非宗教的な市民は、宗教的な発言からさえも意味のある内容を見いだし、 非宗教的な言説へと翻訳し、理解することができるということを否定するべきではない 」と言いました。誰かが宗教的な言葉を用いてある発言をした際、それを自分自身の言葉に翻訳すれば、その人の言っていることに賛同するか、少なくとも一縷の真実があるように理解できます。これは全く新しい考えではありません。紀元前3世紀にインドのアソカ王によってか書かれた勅令第十二号にもこの考えの元となるような記述があります。この勅令は人々に他の宗教の綱要から学ぶことを勧めています。
本当の意味での評価の敬意もあり、それは信奉の内容から切り離すことができます。それは自分の言葉に訳したとしてもなお誰かの信念を不合理なものだと思いつつも、その人の個人的な行為を賞賛し、少なくともその人自身の根拠において、(そしてその人が一番わかっているはずでもあるので)その賞賛すべき行為が完全にまたは大部分においてその信奉に基づいたものであることを認めるということです。つまり、その人がしていることは自分からしてみれば何の意味もないことだけれども、 良いこと、勇気あること、立派なことであると自分の判断基準において認めることです。例えば、ハイファイバー(2足す2が5であると信じる人たち)の小さいけれど精錬された教会のうち99パーセントが、その社会の弱者や苦しんでいる人たちのために並外れた無欲な奉仕活動を行い、それが彼らの信仰における戒律だと主張したとします。その場合私たちは、彼らの信奉における中心的な教義が事実ではないとしながらも彼らの行動に感心し、心から評価し敬意を示しはしないでしょうか。
しかし、このような評価の敬意が全くなかったとしても信念またはその信念に基づく行動をする信奉者に対して無条件に認識の敬意を持つことになります。
この二つを区別することが、いかなる宗教を持つ人、また宗教を持たない人が自由に共存するための唯一の方法なのです。
これは一つの信念を特別扱いしているということではないのか
この草案原則は全ての信奉者に多くの人がとても難しいと感じることを要求しています。それは、自己と信念とを区別し、また区別し続けることです。そのことによって、最後にもう一つ、反論が出ることでしょう。それは、「その一つの信念を他の信念よりも重要視しているのではないか」というものです。それは全ての人がそうやって共存していくべきであるという信念です。寛容さという自由主義の美徳に基づくこの信念は他者が自分は知的にも倫理的にも間違っていると思う信念を持ち続け、その信念に基づいて行動することを受け容れるという大変難しい要求をするものです。
自分が誤っていると思うことを受け容れるのがどうして正しいことになり得るのでしょうか。答えは、 他者の持つ自分と同じように自由な選択をする権利を邪魔しない限り、全ての人に自分の送る人生を選択する自由があるというもっと重要なことがあるからです。歴史を振り返ってみれば自分たち自身の「唯一の正しい方法」を他の人々に強要しようとすれば殺し合い、または強制のし合いという形になってしまうことがわかります。したがって、よく考えると、この信念はそういった意味でさまざまなところで叫ばれるような「唯一の正しい方法」ではないのです。これは、他の人の考える様々な正しい方法のある多様性の中を人類が生き延びるための本当の意味での唯一の正しい方法と言えるのです。
従ってこの草案原則7は実際にこの一つの(宗教的ではない)信念を他のものより重要視していると言えます。しかしそれはこの信念に対して疑問視してはいけないということではありません。これに対して疑問を投げかけたい、または反対したいという人がいればその意見を述べてください。ここはそのための場所です。
reply report Report comment
What about violence against animals?Is it a less important?
reply report Report comment
What does this have to do with free speech?
reply report Report comment
Threats and acts of violence, and intimidation are often used to curtail free speech.
reply report Report comment
Violence is justified in defense of life in response to violent provocation. While I believe in the Christian principle of pacifism in the way I lead my life, I cannot say that violence to defend life and self and community is aways evil. In 1939 war was the right course of action by the British and French governments against Nazi aggression. But war should never be the first course of action. We need global peace, but we should never ignore aggression for its sake.
reply report Report comment
Sure, World War II would be a great example of how violence can be used in order to prevent life, but unfortunately not all the conflict situations are as black and white. Take for the nations in Africa. The borders of the countries were drawn arbitrarily which left some ethnic groups separated by border and other mixed. Some found themselves on the wrong side of the border. Eventually that led to massive ethnic clashes leaving millions up to this day dead. Violence in Africa happens daily and it needs to be stopped, but who is wrong and who is right? Sure we can keep blaming 20th century European Imperial nations for their ignorance but that wouldn’t help much. So the question is who do we help? Who deserved to get the support of the West and who deserves to be hated? Unfortunately nowadays not least effort is put into trying to determine that and the only factor which makes the biggest difference national interest
reply report Report comment
très intéressant et utile dans ce monde de violence. c est un bon message a passe
reply report Report comment
Soy un ciudadano colombiano, siempre afortunado y por mi corta edad (19 años) nunca he tenido encuentros directos con violencia de carteles de drogas o cualquier grupo subversivo. Sin embargo, durante toda mi vida he visto como mi país ha sido afectado por la violencia y los grupos contra la ley. La violencia no puede ser tolerada en ningún sentido! Acaba familias, vidas, países enteros.