04ジャーナリズム

我々は十分に情報を得た上で意思決定を行い、政治生活に参加するため、情報コントロールされていない、多様で信憑性のあるメディアを必要としている。

言論の自由と良い政治制度

時は紀元前4世紀、国語-周語・上 で邵公は周の厲王にこう言いました。「民の口を防ぐは水を防ぐよりも甚し。」論語 [14:23] の中で孔子はこう忠告しました。「嘘をついてはいけない。しかし主君の誤りは躊躇せずにいさめよ。」英語でParliament(国会)という言葉がフランス語のparler(話す)に由来するように、中世ロシアの自治共和国Novgorodの統治協議会はvecheと呼ばれ、その語源はスラブ語の「言論」にありました。このように良い政治制度は自由かつ大胆な言論を必要とするという考え方を様々な文明社会や国々の歴史に探ることができます。

しかしながら言論の自由と民衆が自らを政治支配をするべきであるという革新的な概念を約2500年前に最初に結び付けたのは、小さなギリシャの都市国家、アテナイの市民たちでした。彼らはこれをギリシャ語で「民衆によっての政治制度」(デモス=民衆+クラトス=権力)を意味するデモクラシー(民主主義)と呼びました。彼らは実際に「集会の場」に集まることによりこの斬新な形の政治制度を実行に移しました。「民会で演説をしたい者はいるか?」と使者が問うと、自由市民なら誰でもが起立し、自身の考えを述べ、公共政策の施策を提案することができたのです。約30,000人いた自由市民のうち一度に最大8,000人が民会に参加するのが通常でした。

無論自由市民は男性のみであった以上、女性や不自由市民である男性はその後数千年待つ羽目になったのは言うまでもありません。しかしながらアテナイの人々は二つのとても重要な概念を提唱し、彼らはこれをparrhesiaとisegoriaと呼びました。万物について発言する力を意味するpan-rhesiaに由来するparrhesiaとは真実だと信じているすべての物事について声を大にして発言できるように人々が自由であるべき、恐れを知らぬべきだとしました。Isegoriaとはすべての人々が発言する、そしてその発言に耳を傾けてもらえる平等な権利があることを意味しました。今ではすべての女性と男性を含むまで拡張されたこの対になった概念は、我々の時代における表現の自由の根本にあり続けます。

メディアとは何でしょう

近所、村、学校、大学集会など、一般の人々が自由に、直接的にお互いと話せる場所がいくつかあります。しかし国家を初めとするほとんどの共同体は、すべての人々が集まり、発言したい者皆に耳を傾け、そして投票で決議をするなどということをするには到底大きすぎます。それなので我々はいわゆるメディア、即ち媒体やコミュニケーションの伝達経路に頼らざるえないのです。

ヨハネス・グーテンベルグが印刷機を15世紀ドイツで発明してからの5世紀以上、本、ビラ、パンフレット、新聞のように、紙に印刷されてる言葉や画像がメディアの中心でした。1791年のアメリカ合衆国憲法の第一修正条項はGutenbergの発明に特別な敬意を払っています。「連邦議会は言論の自由、又は報道の自由を剥奪する法律を立法するべからず」としているからです。前世紀においてはラジオとテレビがより広く聴取者、視聴者に届けられました。これらのメディアを通して物事を書き、放送することが仕事の男性や女性はジャーナリストと呼ばれました。

今日インターネットや携帯電話にアクセス可能なら誰でもが言葉、画像、情報やアイディアを広めることができます。そういう意味で我々は皆ジャーナリストや出版者になれるのです。最近では中国トルコの地震のニュースがしばしば匿名のミニブロッガーやソーシャルネットワークのユーザーによって広められました。最も名声のあるジャーナリズム賞の一つのGeorge Polk AwardはNeda Aghan-Soltanというイラン人の抗議人の死を撮影した匿名の40秒間のビデオに授与されました。名のない市民ジャーナリストへの賛辞であります。

我々の多くがこれらのメディアの産物をもっと受け取ることができるようになったのも事実です。30年前先進国のほとんどの人々は一つの日刊新聞と一握りのラジオやテレビチャンネルからニュース(そして考え方)を得ていました。それに比べて今は、普通の検閲を受けていないインターネットにアクセスできる人なら誰でも何千もの情報源、ジャーナル、チャンネルをマウスのクリック一つで閲覧することができます。その良い例がLivestation (英語とアラビア語), Current TV (英語), and LiveJournal and TvTube (様々な言語)です。

あなたのメディアはどれくらい多様ですか

このメディアの過多、そしてそれが故のそこから聞こえてくる人々の声の過多は、表現の自由の好ましく、広い意味で政治的な使用を可能とする前例のないチャンスを生み出しています。それにも関わらずその最大の可能性を引き出すまでの道のりはまだまだ長いのです。実際には未だに各国の少数のテレビチャンネルが重要な役割を果たしていて、地球上のほとんどの人が少数の限られたメディア媒体により情報を得て、影響をされています。国家、電気通信会社、イランのアヤトッラー、イタリアのシルヴィオ・ベルルスコーニ、イギリスのルパート・マードックなど、公共、民間、両方の権力は我々が何を受け取り伝えるかを形成し制限しているのです。

ましてやこれは「事実から真実を見分ける」(中国の古い言い習わし)というようなことを実行し、権力に真実を言おうとしているだけにもかかわらず、検閲、脅し、投獄、射殺に遭うジャーナリスト(市民ジャーナリストも含め)がいるような多数の場所のことについて議論をする以前の問題です。

これはあなたの国のメディアがどれだけオープンで多様か測定するのに役立つ、ヨーロッパの研究者によって開発された便利なツールです。これらの研究者はしばしば使われる専門用語で言う「メディアの多元性」を6つの領域にわけています。例えば、所有権や支配は多様でしょうか?それともその国のあまりにも多くのテレビ、報道やインターネットが国家、もしくわ少数のメディア王や会社に支配されているでしょうか。例えばメキシコでは国内のテレビ市場がTelevisaAztecaという二つの会社に独占されてきました。あなたの国の主要な民族、宗教、言語グループは十分にメディアに反映されているでしょうか?(答えは大体にノーでしょう。)でも考えてみれば、自分の国のことだけを考えるのもおかしいな話です。相互的に連結した地球上の他のニュースや考えはどうでしょう?

しかし、重要なのは政治的多元主義です。メディアの大部分を、一つの政党、傾向、または利益団体が独占するというようなことがあるでしょうか。すべてのテレビ局や新聞社にはそれぞれの偏見があるでしょうか。すべての主要な政治的傾向に、多くの人がその考えを代表するテレビ局を通してアクセスすることができる限り、それは問題にならないのでしょうか。ルパート・マードックによる米テレビ局Fox News Channelのモットーは「公平であり、偏りがないこと」ですが、実際にはこのテレビ局にはほかのどんな言葉が当てはまるとしてもこのモットーは当てはまらないでしょう。このテレビ局と相対する考え方において同じくらい不公平で偏りのある放送局がある限りそれは許されるのでしょうか。

私たちはいわゆる「公平性」というものを目指すべきではないしょうか。公平性とは、人間社会においては達成不可能である科学的な客観性ではなく、1)事実を特定のコメントと切り離すこと、ニュース報道を特定の意見表示と切り離すこと、また、2)テレビ局であれ、機関誌であれ、ウェブサイトであれ、どんなことを語る際にも、その場で、広い社会に存在する主な反対意見についても公平に言及することを意味します。

規制と自己規制

確立した自由民主主義であっても、こういった問題の扱い方は実にさまざまです。それぞれの国において、国家、裁判所、公的機関が何を規制し、何を規制せず市場や社会に任せるか、といった判断が異なります。たとえば英国では、のところ出版に関する規制は各々に任せられていますが、テレビやラジオに関してはOfcomという機関による公的な義務規制があります。英国の放送局による社説の内容を何年間も調査してきた人物はこう話しています。「米国に行くたびに思うのは、Ofcomに値する機関である連邦通信委員会が、放送局に公平性を義務付けるようなことがあれば、FCCは表現の自由で訴えられるだろうということだ。英国の法律で定められていることが米国では違法になる」。

またインドでは、自国の無秩序と混乱を極めるメディアに対して、自己規制のみで十分であるのか、熱い議論が繰り広げられています。通信委員会の議長は、インドのメディアを「アンチ・ピープル(反人間的)」と表現しました。The Hinduの編集長であるN Ramでさえも「何らかのメディアに対する規律機関が必要だ。自己規制だけではうまく機能しない」と述べています。

それぞれの国で様々な方法が選ばれています。そして、それは時代とともに変化しています。唯一無二の普遍的な「正しい」方法というものはありません。問題となるのはその結果、オープンで多様性のあるメディアが成立しているかということです。だからこそ、私たちは自分たちのメディアが、オープンで多様性があり、様々な意見を反映したものであるか、正確で深みがあり、かつ勇敢なものであるかということを常に吟味、訴求する必要があるのです。

今日、私たちは皆ジャーナリスト

また、今日私たちができることは、オープンで多様性のあるよりよいメディアを訴求するばかりにとどまりません。私たち自身で行動に移すことができるからです。私たちの原則案において「メディアを必要とし、創造する」としているのはこのためです。読みたいような雑誌がなければ自分たちで作ればいいのです。多くのナンセンスなサイバー理想主義者たちは言ってきました。ブログやツイッターをしたり、インターネットやモバイル機器を通して「話し」たりしている人が発する声のほとんどは、バベルの塔の人目につかない片隅で孤立したままだと。確かに、大多数の声はほんの少数にしか届いていないという、巨大な「ロングテール」を形成している状態です。その一方で、多くの人に届いている声はまだ比較的少数です。

しかし、個人の主導権で発足し、多くの人に届くようになったメディアの例も十分にあります。これらはインターネットなしでは絶対になしえなかったことです。ほんの数例を挙げれば、韓国で市民ジャーナリストの記事のみでほとんど成り立っているOhmyNewsの目を見張る成功、Wael Ghonimによって作成されたフェイスブック上にあるWe are all Khaled Saidのページが、エジプト国民の抗議運動のきっかけを作り、ホスニー・ムバラク前大統領の失脚につながった例、米国のDrudge Report、中国のブロガーであるHan HanAlexei Navalnyのように高位高官の汚職を暴露するブロガーなどです。

他に良い例があるようであれば、それがなぜこの“We create”のリストにふさわしいかも含めて、ここに書いてください。

フィルターバブルや集団思考に反対する

オープンで多様性のあるメディアを守るために注意しなければいけないことがもう一つあります。インターネットが事実に関する誤った、または偏った理解を助長する可能性があるという証拠が今までに少なからず見つかっています。少し考え方の偏った人でもインターネット上であれば、「チェ・ゲバラ はまだ生きている」とか、「エダムチーズががんの原因になる」といったことを信じる人をたとえば自分のほかに937人見つけたりすることができるのです。こういった人は自分たちをCass Sunsteinの言うところの「インフォメーションコクーン」つまり情報の繭の中に閉じ込めて、常に自分たちの誤った、そして、時には有害な世界観をお互いに補強しあい、オンライン集団思考の深淵に螺旋を描くように陥っていくのです。

顧客に個人仕様のサービスを提供するとともに、その顧客の情報をさらに細かく区分して有料で広告媒体に提供したいという、企業の諸刃の欲望によって、検索エンジン、ウェブページ、携帯端末のアプリケーションなどがカスタマイズされ個人仕様になればなるほど、この傾向が強くなると指摘する人もいます。すべての人が自分の小さなフィルターバブル(自分の見たいものだけを見るためのフィルター)をまとって「自分の日常」の中を歩き回っているとしたら、公共の空間というものはもはや存在しないも同様です。壮大な世界規模の「集会の場」の中で事実や意見を交換し合うのとは程遠く、私たちは皆自分専用の個室を持ち歩いてその中に留まり、同じような考えの人たちの意見だけを蒸気のように吸い込んでいるということになります。

これは危険なことです。しかし、絶望することはありません。私たちは「メディア」や「インターネット」という名の不可抗力の前で粒子化された受動的な物体ではありません。このような効果について知り、メディアやインターネットの情報をどのように読みとればいいかということを自分自身で学び、また自分たちの子どもに教えていくことができます。また、オンラインの出版社、アグリゲータ、知的なキュレーションサイトなどを支持して、様々な反対意見を広めることで集団思考の偏りをただすことができます。事実と擬似事実を区別するFactCheck.orgのような情報資源を洗練させることもできます。 ウィキペディアを今よりももっと良い情報資源にするために改善することもできます。

これら全てを実行することができれば、このポストグーテンベルグの時代には、私たちの必要とするオープンかつ多様なメディアを創造するための今までにないチャンスが訪れると言えるでしょう。


コメント (16)

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  1. Dick,

    You claim that “it is not … permitted to criticise Muslim immigration and Islam”. You “demand that anyone who wants to say that [Islam is incompatible with Western democracy] be able to do so, and feel no compulsion to be silent”. You “think people should be entitled to say what they believe about Islam”. I don’t understand what you mean.

    Who is stopping you from speaking your mind? Your views are right here, out in the open.

    Views very much like yours are all over the mainstream media. They are also being articulated by influential and widely-read bloggers. Just look here [http://bit.ly/VthfKR], here [http://bit.ly/18ocQxU], here[http://bit.ly/18m1J8u], here[http://bit.ly/10UkffD], here[http://bit.ly/124TpZH], here[http://bit.ly/16dH6f1], or here[http://dailym.ai/132KhBn] – all circulating widely just in the last few days.

    How can you say that people are prevented from reading and writing such things when they and you are saying and writing them every day? Do you feel that what is being published does not go far enough? If that’s the case, look at the comment threads (if you can read German, you will particularly like this [http://bit.ly/NQftA5]), or Twitter, or Reddit, or Youtube. Legions of users post violently anti-Muslim statements there, which get likes and upvotes. Sometimes one or two people are arrested and later released without consequences if they are deemed to incite hatred or violence, for which they have to go much further than you do in your post; the cases your link referred to involved direct threats. Why should those be legal?

    Views similar to yours are also represented by politicians in the UK [http://bit.ly/1aizioB], the Netherlands [http://bit.ly/10HcmLs], Germany [http://bit.ly/16yAkzd], France [http://bit.ly/112jXn0], Austria [http://bit.ly/188rzwM] & Switzerland [http://bit.ly/16oRl07] & Italy [http://on.ft.com/13YvwRh] (where these parties were or are in government), Denmark [http://bit.ly/10zF4kN], the US [http://bit.ly/19lJcrS] and, I believe, your own country, Finland.

    Many political parties cater to the “I’m not racist but…” and “We can’t even say/do what we want anymore” crowds; they have plenty of politicians who warn that “sharia law” will be imposed on their countries if they do not protect western liberal democracy against ‘Islam’, including by deporting fellow citizens they disagree with. And gain, if the likes of Farage and Le Pen do not go far enough for your taste, there are even more radical parties in most of these countries, who in some cases receive state funding and in all cases enjoy the same police protection as everyone else when they want to voice their opinions.

    You seem to think your views are being censored by the police, political correctness and/or a liberal bias in the news media. I just don’t see any evidence that that’s the case. There is absolutely no shortage of anti-Muslim sentiment in our public discourse. On the contrary, people espousing such sentiments have been allowed to inject their poison into the veins of most western body politics, clouding the judgement of policy-makers and an often ill-informed public, so that bearded men and veiled women and conservative Muslims are now widely perceived as ‘Islamists’, ‘radicals’ and/or ‘oppressed women’, and many in the west have been convinced that ‘sharia law’ is the devil incarnate, and ‘jihad’ some global plot hatched in the 7th century to kill all infidels. (Evidence here [http://bit.ly/ZdZQpa] and here [http://bit.ly/ZsVNI6].)

    So why do you say that people like you are being silenced when you clearly have a platform in the media, on the internet, on the street and in politics? It must be because, beyond the crowd in your own echo-chamber, you have no audience. Despite everything, not many people agree with views as extreme as yours, even though more and more agree with a diluted version of your views because of the platform given to anti-Muslim rhetoric in the media and online. 

    What’s more, most people probably dislike you rather instinctively. Starting a post with I’m-not-racist-but doesn’t help; nor does calling 2 billion people “naive”, or 12 million fellow citizens “enemies in our midst”. Maybe a bit of civility would do the trick, Dick? You may think you are being censored, but in reality you are just being ostracised by the majority who disagree with your weak arguments and/or your vicious rhetoric.

    All your claims rest on the assumption that you can extrapolate from the ‘Islam’ of criminals like Michael Adebolajo and Anjem Choudary to the faith(s) of billions of people living all over the world and throughout history. You assume that what hate preachers say and governments do under the banner of religion is the one and only interpretation of a kaleidoscopic and fluent faith and centuries of practice, law and scripture. Yet you only apply this twisted reasoning to Islam.

    If you applied your logic to Christianity, you would have to conclude that ‘Christians’ (i.e. everyone from 21st-century Quakers to 12th-century crusaders and Jesus himself) are and always were like Anders Breivik and Terry Jones; that they are and were and will always be evil because some (democratic!) majority-Christian countries have barbarous criminal justice systems (including the death penalty, extrajudicial assassinations and torture); that Christianity is inherently racist and homophobic and misogynistic because it was and is used by many of its followers to justify slavery and resist movements for equality to this day; and that many Christians want to remove the liberal democracy that is incompatible with their faith, and replace it with Biblical law.

    Those who really care about their faith, in my personal experience, care about all of it, especially the bits that ask them to do what they don’t want to do. Those who abuse religion to justify their crimes always seem to care about nothing but “an eye for an eye” and the randomly picked and decontextualised quotes that give them an excuse for what they want to do for reasons unrelated to religion. So what’s the point of lumping them all together and condemning the many for the actions of the few? Condemning all members of an arbitrarily and loosely defined group for the actions of some of its ‘members’ is either nonsensical or bigotted. But if you are going to engage in such generalisations, you will have to at least hold everyone to the same absurd standard, or people will put labels on you that you do not seem to want to carry. You can’t insist on your right to call something you think is a spade a spade but deny others the right to do the same.

  2. I agree with ‘we speak openly about all kinds of human difference’, but the problem comes with defining ‘with civility’, because that is the point where certain groups will want to take offence at certain inconvenient truths, for instance that Islam is not a religion of peace and brotherly love.

  3. I am against racism, and I have nothing against any religion other than Islam. I think people should be entitled to say what they believe about Islam and the very real actions caused by Islam. Many people have had enough of the politically correct discourse that Islam is a religion of peace, etc etc, but are afraid to say so because they would immediately be labelled Islamophobes. Due to our tolerance, the non-Muslim inhabitants of Western countries are allowing ourselves to be steamrollered by Muslims and their increasingly intrusive demands – sharia law, changes in our foreign policy, etc. It seems to me that they are enemies in our midst and not loyal citizens. Islam is simply incompatible with Western democracy, and I demand that anyone who wants to say that be able to do so, and feel no compulsion to be silent about this most pressing of issues.

  4. Some discussions about human difference cannot be civilly discussed; for example, racism should never be allowed.

  5. My opinion is that such kind of speech and expression of thoughts, jokes, etc. connected with immutable characteristics of people, shouldn’t be limited by law and society: it should be up to every person, what should he/she say and what shouldn’t. Up to his/her mind and conscience. Until it harms person.

  6. Freie Meinungsäußerung ist wichtig, solange der Redner dabei nicht die Recht e anderer Menschen beschneidet oder andere Lebewesen diskriminiert.

  7. A very interesting and controversial article posted by Janet Haney – Kenen Malik on multiculturalism. He suggests that we can either pledge equality of cultures or equality of people, but not both. Thanks Janet 🙂 !
    http://www.kenanmalik.com/lectures/multiculturalism_if.html

  8. I disagree with most of the statements made in this article for one reason. All of the arguments made above are valid and work only if one assumes that a human is a rational and educated creature who will inform him or herself before making a decision or forming an opinion. That however is not true, and sadly enough many of us all fall under pressure by our envirnment and propaganda. These so called insults which one directs towards others under the excuse of freedom of speech are messages of hate. They in themselves want to hurt others and limit the freedom, human rights and the freedom of expression of a particular group. Therefore limiting the “freedom” in the “freedom of speech” is ironically an important part of achieving a more tolerant and civil society.
    Moreover, I completely disagree with the comment made about the Indian Penal Code. The history of the law is completely irrelevant. True, it might have been originally written for a different purpose but it doesn’t mean that it always has to be used just for that same purpose. If freedom of expression was once used as an excuse to limit the rights of colonized citizens, it does not mean that it now should be abolished because of its dirty history. In fact, as the author has stated it himself, there is huge room for interpretation in the issue of free speech, therefore this same law can be used in more noble ways.

  9. As a general principle I definitely agree that free speech should be a universal right. Contentwise, however, there should be restrictions.
    Considering the fact that communication occurs between two subjects, the sender and the recipient, both subject’s values matter in the process. The tricky part in the proposed principle therefore is ‘civility’.
    Civility itself restricts free speech. I think most people agree that the publication of the Muhammad cartoons were not an act of particular civility, because it offended the religious / moral values of the recipient group.
    How can we thus find the balance between the universal right to free speech and non-universal values of sender / recipients?

    • Hello Annemarie. I saw the Danish Cartoons for the first time this week. They were not shown in UK when the furore first broke out, and I didn’t think about them much again until recently (it was the DV8 dance event – Can We Talk About This? – that brought them back to mind, something I saw in London a few weeks ago). I would be disappointed if ‘most people’ agree that their publication was ‘not an act of particular civility’. But I would not be surprised that people had been frightened into saying such a thing after the alarming response of the murderous threats at the time. Remember – the cartoonist was threatened with a violent death: http://www.guardian.co.uk/world/2010/jan/04/danish-cartoonist-axe-attack

      • Hi Janet, apologies for my late response. I hadn’t seen on my account that you commented on my post.
        I just had an argument with a girl studying Human Rights at LSE. In summary, she clearly argued that if she was a cartoonist, she would never (!) publish something which would so obviously assault a certain group. Would you do so? Why do you think that this case was not ‘not an act of particular civility’?

  10. Excellent piece! I agree with almost all of the points made here.

    My only worry associated with this proposed “civil” and courteous free speech is the remarkable ability of the same spoken language to be simultaneously civil and uncivil to different audiences. Accounting for a gradient of such differences in perception, I wonder if the final test of civility in tricky situations will indeed be the lack of violence/ violent overtures. And if that is the case, it may as well be codified as such in law!

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言論の自由の討論はオックスフォード大学セント・アントニーズ・カレッジのダレンドルフ自由研究プログラムの研究プロジェクトです。www.freespeechdebate.ox.ac.uk

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