2015 年3月、英国オックスフォード大学に所属する学生団体の一つであるオックスフォード・インドソサイエティー (The Oxford Indian Society: OIS) が、エクスターカレッジ主催によるスブラマニアン・スワミー(Subranamanian Swamy)とラジーブ・マルホトラ(Rajiv Malhotra)のトークイベントを宣伝した。両者は母国インドでヒンドゥー教信者の権利を支持しており、特に有名なイスラム教批判者として名を馳せている。スワミーは米国ハーバード大学で教鞭をとっていたものの、彼らがヒンドゥー教徒を認めない限り、ムスリムの公民権を剥奪すべきだと提唱したことがきっかけで、ハーバードでの彼のコースは打ち切られた。エクスターカレッジでのイベントの開催について、オックスフォードの学生等はスワミー等を招待する事をもう一度考え直すようOISに請願し、これを受けOISはすぐにイベントを中止した。しかし一部の学生等による請願と2人の講演者を招待しないという決定が批判と議論を巻き起こした。今回の記事は、この請願がなぜ問題なのかについて説明する。

請願に対する批判者は、請願がスワミーやマルホトラ同様に言論の自由を保証されている人々の権利を侵している、という点を指摘する。しかしこの批判は的を得ていない。というのも批判者等は発言権と討論の自由を区別していないからだ。請願を提出した者が彼らの発言権を盾に取っている一方で、こうした発言権は討論の自由に当てはまらないことになってしまう。つまり、スワミーのような人々の討論の自由と機会を奪ってしまうことによって発言権と討論の自由の境界線がなくなる恐れがある。

請願に対するもう一つの批判は、スワミー自身がOISからの招待に対して何の決定権もない一方でOISのみに一方的に講演者を招待するか否かの選択の権利があるという事実である。どんなに特定のスピーカーを招待するか否かについて反対しようと、こうした反論がいかに不合理で一方的なものなのかという事について理解すべきである。イスラム教徒に都合の悪い講演者を呼ぶべきではないという請願は、同様にもヒンドゥー教徒に都合の悪い講演者を呼ばないよう訴える口実を与えてしまうことになるため、このような主張は結局堂々巡りになってしまう。認識上理解されている謙遜概念は、刑法や暴力による脅迫など、強制的な手段によって保証されるものではない。またそうした謙遜は自らの立場を否定し拒絶することも求めていない。当然ある者はスワミーを招待するというOISの権利を主張することもできれば、その選択に反論することもできる。しかし反論に対処するため自らの権利を盾にとることは、真っ向対立する立場に立つ者同士が権利を主張し合うだけで、もはや妥協の余地すらないということを自覚せねばならない。

このイベントに関する主張はこれまで記したような大きく2つの拮抗する立場に依るものが多い。スワヒーを招待しないように主張している者を批判することで、言論の自由を保護するという点を鑑みればこの2つの相容れない意見の相違はごく当たり前かもしれない。著者はこれまで、イベントに関する一連の騒動が言論の自由に関する問題ではなく、どちらの立場が討論の場を与えられるべきかという点を巡っての見解の相違であると主張してきた。そのため特定のスピーカーを招待しないよう訴える請願は一種の規範原理に基づいているべきである。

第一に、なぜヘイトスピーチに携わる人をスピーカーとして選ぶ必要があるのだろうか?ここで重要なのは、討論の自由に対する反論がイデオロギーの相違に基づいているものではなく、ヘイトスピーチに基づいている点である。ヘイトスピーチは、国籍、人種又は宗教の要素に起因する憎悪を表す表現であるが、特定の人々に対する差別や敵意、暴力は言論の自由と談話の根本的な規範を侵す。イデオロギー、宗教あるいは民族に関する議論は、規範が人々のモラルを形成し、暴力の恐怖から解放されている限り可能である。同様の原理は、いかなるイデオロギーを持つ人々にも適用されるべきである。しかし今回の一連の騒動の中で、スワミーの主張がヘイトスピーチを構成しているか否か、未だに議論されていない。こうした点が議論されることなく、請願に関する賛否のみに議論が収斂してしまっている。

次に、なぜヘイトスピーチに携わる人々の討論の機会を否定すべきなのか、と疑問を呈す者もいるかもしれない。ここで理解しないといけないのは、ヘイトスピーチに加担する人々を権威ある討論の場に招待するということは彼らの名誉に貢献することになるかもしれないという点だ。ここでまた、討論の機会はなぜヘイトスピーチに携わる権威ある人々に対し、認められるべきではないのか、とある人は疑問に思うかもしれない。例えばの話、ヘイトスピーチに携わる人々は、分子生物学についてのスピーチを行う機会を得ることはできない、とすればどうであろう。これに対して、分子生物学とは異なり、経済改革という分野のほうがヘイトスピーチによって容易にねじ曲げられるであろう社会領域から切り離すことができないから、分子生物学についてのスピーチは許可すべきなのではないか、と主張するものもいるかもしれない。つまりこうした無制限な議論は、あらゆる境界線をうやむやにしてしまうのだ。また最後に、名声のある討論会の機会をスワミーに与えるということは、いかなる分野の討論であろうとも、公人として発言するという正統性をスワミーに与えることになる。

またこれとは別に、スワミーの講演を拒むよりも、彼自身に彼のスピーチについて質問するほうがよいのではないかという見解もある。だがそうすることが倫理的に卓越しているのか、それとも何か現実的な利益があるのか、明確ではない。もしそれが前者なら、公然と、また効果的に彼に対し反駁することができる。しかしここでも問題が生じる。第一に、どんなに厳しい質問を彼に浴びせようと、オックスフォード大学のような権威ある大学で講演を行うということは、やはり彼の主張に正統性を与えてしまうことになる。第二に、講演者対公聴者に与えられた時間と意義についての見解が抜けている点である。スワミーのヘイトスピーチに関して彼に詰問を浴びせるパネリストも、スワミーの弁解によっては彼の主張を広めることに加担するという役割を果たしてしまうかもしれない。

この記事を締めくくる前に、この問題に適切な形で、言論の自由の異なる側面について議論したい。スワミーらの講演中止に関する請願は、スワミーとマルホトラ自身のみでのなく、彼らの多くの支持者の注目をも集めた。ツイッターでの炎上のみでなく、非道な支持者の注目を集め、学生等による請願は奇妙な思惑を広めることとなった。例えば、スワミー等への招待がアマルティア・セン(Amartya Sen) の指示によって取り消されたなどの噂が広まったのだ。ヒンドゥー教支持者等が一斉に、そして辛辣に彼らのリーダーを批判する者たちに反論するという傾向も伺えた。また女優シュルティ・セス(Shruti Seth) や活動家カヴィタ・クリシュナ(Kavita Krishnan)はナレンドラ・モディ首相 (Narendra Modi)の政策を批判したということでツイッター上での批判の的になった。現在の政治制度に反対する人々を沈黙させる、こうした反撃も非常に危険である。スワミーとマルホトラのネット上の支持者の非道な行為を鑑み、著者としてはこの記事を書く上でペンネームを使わざるを得ない。最後にもう一度強調しておきたいが、こうした非道な人々に対しても、彼らの言論の自由を支持し与えることができるのは事実である。しかしなによりもそれが一般市民の議論に与える影響をまず熟考すべきである。

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言論の自由の討論はオックスフォード大学セント・アントニーズ・カレッジのダレンドルフ自由研究プログラムの研究プロジェクトです。www.freespeechdebate.ox.ac.uk

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